内側から見た富士通「成果主義」の崩壊

内側から見た富士通「成果主義」の崩壊 (ペーパーバックス)

内側から見た富士通「成果主義」の崩壊 (ペーパーバックス)

僕の働いている会社は、今度から成果主義になる。そうなる前に「成果主義とは何ぞなもし」という疑問を解決しておきたくて購入。疑問の中でも、一番気になるのは「成果主義の弊害」だ。新しい制度を導入する際には、導入する人は基本的に新制度の良い面を紹介する。そりゃ、良い面があるからこそ導入したいんだろう。それはわかる。ただ、物事には大抵悪い面がある。悪い面というやつは、制度上の欠陥から個人の嗜好に至るまで一体どんなものがあるかは検証してみなければわからない。良い面は大体分かっている。既に名前に出ている。製品に名前をつける際、製作者の心情として、製品について一番自信のある部分を大きく映すような名前をつけるものだ。そりゃそうだ。だって製作者は製品の利点こそが、その製品の使用目的と思って作っている。だから、使用目的を名前にする。製作者は、使用目的に最も沿ったものを製作する。その結果、製品の利点は製品の使用目的に最も適していることとなり、その使用目的が名前になる。この理屈を逆に辿っていくと…名前→使用目的→当該製品の利点となるわけだ。…かなり脱線した。
内容は…、これは成果主義が悪いんじゃないですね。単純に富士通がおかしい。富士通がおかしくなったのは、目標管理という評価制度がエリート社員を正しく評価できなかったことで人材を放出してしまい、ダメ社員ばっかになってしまっただけで。富士通という会社には、他のどんな人事制度を取り入れても大なり小なり同じような方向に進んで行ってしまうような素地があったのではないだろうか。「官僚主義」「縦割り」「属人的」といったキーワードが最初に浮かぶような社風であるならば。このような「ムラ」では、掟をちょっとでも変えれば大騒ぎだ。やれ山賊に殺されるだ、やれ犬がみの祟りだ、一度こうなったら手の付けようが無いだろう。一見まとまっているように見えても、大勢というのは一枚岩にはなりにくいものと思う(エントロピーみたいな話だが)。そこで、経営者や人事などの経営寄りの方々は、こういったいとも簡単に崩れそうな「社員の総意」を、絶妙なところでバランスを保ちつつリードしなければならないのだろう。
リーダーは、何でもかんでもドラスティックである必要は無いと思う。一枚岩ではない集団を強引にまとめて変えようとするのは、いじめられっ子の泣き虫君をスパルタ教育するようなものだ。カルロス・ゴーンなどを見て「オレもやるぜぇ!!」なんてリキ入れている経営サイドの方々は即刻退場していただきたい所存だ。ゴーンは、あくまで理にかなった当たり前のことを貫いただけのことだろう。あれは、それまでの日産が非常識だっただけの話ではないのか。もしかすると数十年後、変革前の日産はバブル崩壊前後の金融機関のように「バカの象徴」として扱われることになるかもしれない。歴史というのはそういう面白い面を持っている。だからこそ歴史には価値があると思う。…相当脱線した。
内容は非常に読みやすいけど、同じことを「これでもかっ!!」というくらいに繰り返すので本気でウンザリする。たぶん、あの本を三分割して、最初の部分だけ読んだらあとは飛ばし読みする程度で十分じゃないか。前半が終わるくらいから写真週刊誌並みのねちっこい、実にどうでもいいネタの検証に終始する。後々、光文社ペーパーバックスの他の本も眺めてみたが、どうもそういう傾向が強いみたいだ。個人的にはかなり苦手。「写真週刊誌大っ好き!!」な方にはもってこい。そういう方限定でお勧めしたい。